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Kamikaze, az Isteni vihar (japánul)
2013.04.26, 08:08                    Tartalomjegyzékhez               Egyszerű

元特攻隊員への独占取材

“昭和20年(1945年)8月13日、戦争の終わる2日前、木更津の基地から攻撃のグループが出発しました。私の先輩である西森良臣兵曹がこう言ったのです。「川野、これから自分は出撃する。川野の新しい飛行服と自分のを取り替えてくれ。きれいに死ぬために新しい服が欲しいのだ」私はちょっと残念な気持ちで服を渡しました。なぜなら3日後自分も出撃するので、自分もその時に使いたかったのです。しかし私が出撃する日の前日、戦争は終わりました。私の飛行服は私の代わりに沖縄の海の底に沈んでいます。そして私は生きています。神様は亡くなった仲間たちを忘れないように、彼らのことを次の世代に伝えるために私を残したのだと思います”

昭和16年(1941年)、日本はアメリカの真珠湾攻撃をし、国土が25倍もの広さをもつアメリカと、イギリスと連合軍とを相手に先行きの暗い戦争に突入した。昭和17年(1942年)、ミッドウエーでの戦いで負けてから、日本の戦況はますます悪くなった。しかしながら大本営は何とか状況を好転させようと、きわめて異例の決断をした。

 岡村元春海軍大佐は、特別攻撃という出撃する者は命を捨てて、爆弾を積んだ飛行機やグライダー、または小型潜水挺、モーターボートで敵艦に体当たりする方法を大西瀧治郎長官(のちに特攻の父と呼ばれた)に提案し、大本営は許可した。

 世界で最初の、“命ある爆弾”となったのは、関行男大尉元操縦教官だった。関は半年前に結婚したばかりだったが、大西長官の話にすぐ承諾した。しかし、アメリカの情報のとおり、自分の身近な人間に不満をもらしていた。「自分のような逸材をも無駄にするとは、もう終わりだ。自分が引き受けた理由は、アメリカ兵が自分の妻に何をするかを見たくないからだ」彼のグループは昭和19年(1944年)10月25日フィリピンより出発してアメリカの敵艦に突入、すばらしい戦果を上げた。彼らの飛行機5機のうち4機は命中、6隻の敵艦に大打撃を与えた。うち空母1隻は撃沈した。さらに戦艦も1隻撃沈した。ほかの空母では大火事が発生し、ほかの3つの空母は著しく損傷し使用不能になった。

 この戦果に動機付けられ、大本営は特別攻撃隊を創設した。最初の自爆攻撃をした関大尉を指揮官とする攻撃隊の名前は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」であった。その為、海外では全ての特別攻撃隊(特攻隊)のことを“カミカゼ”と呼んでいる。意味は神様の風。昔日本に来襲した蒙古人たちの舟を沈めた強風に由来している。

 日本軍はそれから特攻攻撃を継続することになった。これによって海軍だけでも2,534人、1,392機の飛行機を捧げた。ちなみにアメリカの海軍の歴史上、特攻隊がもっとも大きな損害を与えた。

 18から23歳の紅顔の純粋無垢な少年たちは潔く自らの命を国に捧げ、錆びた練習用の飛行機をも整備して、往路の燃料しか入っていない機体に250キロから800キロの爆弾を抱き、敵艦に体当たりし、壮絶な最後を遂げた。その人達は誰だったのか?敵が特攻隊に共感を持つとは誰も考えない。だが、特攻隊研究の第一人者デニス・ウォーナー(アメリカUPI東京特派員)から見る特攻隊員は、正常な精神の持ち主であり、間違いなく勇敢で決心の固い若者たちであった。若者たちは愛国心の方が生きる欲望に勝っていただけなのだ。

 ご自分で作られた特攻に関する資料館で、わずかな生き残りの一人である元特攻隊偵察員、川野喜一氏にお話しを伺ってみることにしよう。

ドマ「川野さん、あなたはどのように特攻隊に入ったのですか」

川野「昭和17年(1942年)5月1日に土浦の海軍に志願して入りました。予科錬に申し込みして厳しい試験を通りました。回転する椅子に座って、そのまま試験官がそれをぐるぐると10~15回まわし、背中をぽんと押した後、前に立ち上がってすぐに歩けるか。また、傾斜が増していく板の上にどれだけ長く立っていられるか。視界の広さ、筆記試験、面接などがありました。学校は通常3年かかるところを、戦争中だったので私たちは2年で終了しました。

18歳のとき、高知の空港に操縦教師の助手として勤めました。その半年後、大分の148人の御楯隊に編成されました。2人乗りの流星という攻撃機に乗っていました。当時、最新式の飛行機で1825馬力、最高時速450キロ、最大飛行距離2000キロ。しかも席がリクライニングするのはこの機種しかありませんでした。全110機しか作られず、そのうち80機がうちの隊に配備されていました。これが後に特攻に使われると聞いた時は驚きました」

予科練資料館にて(右:川野氏、左:ドマ・ミコー)

ドマ「特攻隊のことをどのように聞きましたか」
川野「関行男が行った特攻の攻撃は2日後にプロパガンダで発表されました。彼に続くべく多くの志願者が出てきました。日本では長男を特に大切にするので、両親たちは2番目か3番目の息子を神風に送りました。志願した者は全員死んでしまったので、昭和20年(1945年)7月25日、大本営は命令で飛行機に搭乗するすべての者を特攻隊としました。おのずと私たちの隊も特攻隊となったのです。その日から特攻隊の攻撃が始まりました」
ドマ「それを聞いた最初の印象はどうでしたか」
川野「でも戦争は負けそうでした。ほかの人は生き延びる希望はありましたが、私たちは死ぬしかないのです」
ドマ「特攻の訓練はどうでしたか」
川野「毎日攻撃の練習をしました。2000メートルの高さから速度を上げながら管制塔に向かって急降下し、200メートルになった時に水平飛行に入ります。この訓練は戦争中たくさんの仲間の命を助けました。もし、敵機が後方から接近、追随してきた場合、我々は急降下した後旋回します。しかし、敵機は旋回すべきことに気づくのが遅く、そのまま落下していくのです。もちろん空中戦も訓練しました。敵機と縦に円を描くような空中戦になった際は、通常先に一回転できたほうが爆撃をする事が可能となります。しかし、我々は逆さまでも飛行する事ができたので、半周するだけで敵機に爆撃をすることができました」

特攻隊偵察員当時の川野氏

ドマ「死ぬことは怖かったですか」

川野「平気でした。毎日自分が死ぬことを練習していましたし、毎日仲間も死んでいったので。隊は6人から12人で構成されていましたが、攻撃の順番の番号で呼ばれていました。私の基地からは毎日2-3隊が出撃しました。1つの隊には3機の飛行機がありました。私たちの飛行機は2人乗りでしたので、毎日12~18人が亡くなるという意味になります。私は第7御楯隊に配属されました。わが145人の飛行隊からは終戦までに30名が亡くなりました。また、1,480名の予科練の同期のうち、400名が犠牲となられました。

 死ぬまで忘れません。田中上等飛行兵曹は昭和20年(1945年)8月9日に特攻に出ました。前夜、兵舎の柱に幾度も頭をぶつけて言いました。“川野、やっぱり痛いなあ。死ぬのも痛いだろうか”次の日、敵艦に突入した時にどうだったのかわかったと思います」

ドマ「訓練では恐怖心を取り除くために、何かしましたか」

川野「もし、マインドコントロールがあったのではというのなら、それはなかったです。特攻に自分から行ったのではないのですが、命令を受けてからは任務遂行のために一生懸命努力しました。日本人の心と体は、古代から大和魂、武士道が宿っている。負けたときに上官から自決しろと言われれば従います」

ドマ「特攻は神風たちの狂信というイメージがありますが・・・」

川野「もうひとつの価値観があると思います。もし勝った国がやっていれば今は大変な英雄扱いでしょう。私は特攻隊では2つのタイプの操縦士がいると分かりました。1つは愛国心が強いゆえに敵を憎み、必ず死にたいというタイプ。もう1つは、生きたかったが、冷静に考えた後に命を捧げたタイプです」

ドマ「冷静に考えたのですか」

川野「そうです。アメリカの爆弾で毎日何千人も国民の命の灯火が消えました。もし、空母1隻が沈没すれば、何万人もの日本人の命が助かります。それの代わりに私達は1人の命を犠牲にする。もし爆弾を積んだ飛行機を空母に命中させれば、沈没か、大火事か、滑走路を使用不能にして飛行機の離発着を不可能にできるのです。通常通りに空爆すると成功率が低いのです。もっとたくさんの飛行機と人を失うことになりかねません。どちらの方が目的を達成する為の成功率が高いか。どちらの方が人道的か。自分の命を捧げるのが難しいのは良くわかりますが、特殊な状況下において、時々人間は自分からこれをやらなくてはならない。私たち日本人は生への執着より国を愛する気持ちのほうが強いのです」 

ドマ「特攻の命令を受けたときは、どのような気持ちになりましたか」

川野「まず心が軽くなりました。やっと来たのです。上官が毎朝掲示板に近日中に特攻出撃する者の名前を張り出しました。しかし、出撃の数時間前に分かった者もいました。ある5人の隊もその様になりました。7月25日と8月2日に私も緊急で呼ばれましたが、秘密の飛行機の格納庫からトラックで機を運び出した時に取り止めになりました。多くの隊員たちは何ヶ月も名前が出るのを待っていましたが、待つことやいつになるか分からないで神経が参ることもありました。そういう隊員は早く出撃できるように祈りました。そして本当に呼ばれた時はうれしがったものです」

ドマ「家族に最後のお別れをしましたか」

川野「ほかの部隊ではそういうこともありましたが、うちの隊ではあまりありませんでした。短い時間で家族と会えるのは、少しの隊員しかできなかったのです。辛い別れでした。特攻出撃のことを知らせてはいけなかったのです。ほとんど手紙しか書きませんでした。死ぬ前の隊員はもう次の世界に踏み込んでいました。死後の世界でどうなるかはあまり無関心でした」

ドマ「特攻攻撃をどのようにやりましたか」

川野「朝、飛行場の責任者が朝礼台に上がり、その日の命令の中で誰が攻撃に行くか、名前を読み上げられ、その者が前に出ました。決まった者は別れの杯を交わし、特攻の歌を歌いました。それから飛行機に乗り込むのです。この間、にこにこしながら冗談を言ったりして、まるで遊びに行くようでありました。攻撃のグループでは神風の飛行機と一緒に偵察機と、補佐する攻撃機が行きました。攻撃機は敵機の攻撃から特攻機を守り、戦果を確認する任務がありました。でも終戦間近の時は確認までできませんでした。敵艦の方向に何時間も8000メートルの高度で進みます。初めて敵艦を見つけた者は機体を左右に揺らすのです。特攻機は士気が上がり、旗と鉢巻を機外になびかせます。鉢巻は白い絹製のリボン状になっていて、頭の後ろで結んでなびかせるのです。額に日の丸、そして目標が書かれています。

Hachimaki headband, symbol of the perseverance

特攻隊員が使用した鉢巻

敵艦隊から80キロのとき機首を20度下げて進みます。2000メートルのとき急に機首を45度下げてモーターの動力を最大にします。敵艦から激しい反撃の中をうまく突っ込む事ができ、高度が500~600メートルになったら、機首を60度にさらに下げて急降下し、照準を敵艦に合わせ、突入します。すると、特攻機に積んである250キロから800キロの爆弾が爆発するのです。特攻攻撃は始めから全てで60秒もかかりません。電鍵を押し続けて発信音を出し続け、音が切れた時に隊員が亡くなったことがわかります。敵艦は沈没せずに攻撃から大火事になるか、破損するかだけの損害であっても、特攻隊員の体はバラバラになり骨も残らないでしょう」


モールス信号が途絶えるということは、隊員の死を意味する

ドマ「あなたの一番心に残ることは」

川野「昭和20年(1945年)8月13日、戦争の終わる2日前、木更津の基地から攻撃のグループが出発しました。私の先輩である西森良臣兵曹がこう言ったのです。“川野、これから自分は出撃する。川野の新しい飛行服と自分のを取り替えてくれ。きれいに死ぬために新しい服が欲しいのだ”私はちょっと残念な気持ちで服を渡しました。なぜなら3日後自分も出撃するので、自分もその時に使いたかったのです。しかし私が出撃する日の前日、戦争は終わりました。私の飛行服は私の代わりに沖縄の海の底に沈んでいます。そして私は生きています。神様は亡くなった仲間たちを忘れないように、彼らのことを次の世代に伝えるために私を残したのだと思います」

ドマ「最初の神風たちはわかりましたが、最後の神風たちは誰でしたか」

川野「今でも最後の日のことは脳裏に焼き付いています。天皇陛下が8月15日12時に終戦を玉音放送で国民に知らせました。しかし、その日の午前中にもまだ攻撃はありました。飛行機工場では学童たちもが借り出されて働いていたので、何度もエンジン不調で引き返さなければならないことが多かったのです。この日も二人乗りの飛行機3機が戻ってきました。2機は一番近い飛行場に緊急着陸し、もう1機は海に墜落。乗員のうち一人を漁師が助けましたが、もう一人は死にました。

 もうひとつ、私に辛い思い出は、私の友人であった中内理一等飛行兵曹が終戦の日の11時に出撃しました。その1時間後、終戦の放送があったので引き返すように無線で連絡をしたのに帰って来なかった。彼は平和になった時に死んだのです。21歳でした。

玉音放送前に出撃した中内理一等飛行兵曹

 第5航空艦隊宇垣纏司令長官は特攻隊出撃の別れの挨拶の際にはいつもこう言っていました。“いってらっしゃい。必要であれば私も行きます。”他の長官同様、彼は敗戦になることを早くに知りました。しかし、その様な恥ずかしいことを聞くまで生きたいとは思いませんでした。捕虜になった際米軍を喜ばせない為、彼は軍服から階級章をすべて取って中都留操縦士の飛行機に乗り込もうとしましたが、2人乗りの飛行機内に3人は窮屈でした。遠藤兵曹長は最後の攻撃になると分かったので彼も降りたくなかったのです。仕方がないので遠藤は長官の股の間にうずくまって出撃しました。攻撃というよりは死ぬために行ったようなものです。長官が行くなら自分も行きたいと彼に頼んだ隊員が集まって、結局最終的に23人、15日の午前中に出撃したのです」

宇垣纏司令長官「いってらっしゃい。必要であれば私も行きます」

ドマ「日本は負けるといつ気づきましたか」

川野「昭和20年(1945年)4月初めの頃、東京にも空襲がひどくなってきました。私たちは燃料が足りなかったので、少ない飛行機しか出撃できなかったのです。そんな状態の中、ある日空襲にあって防空壕から外の様子を見ていた時、墜落した飛行機から米兵が脱出してパラシュートで海面に落ちました。私たちの弾は足りなかったので、使用制限命令が出ていました。米軍の仲間が水上飛行機で救助に来ました。私たちは弾も撃てずにただじっと見ているだけで何もできませんでした。当時の日本では、一人の命はそこまでする価値はなかったのです」

ドマ「終戦を迎えた時、どのような気持ちでしたか」

川野「私は世界一不運な奴だと思いました。厳しい猛訓練を受け、真面目に励んでいたのに。村の駅で皆が私たちを英雄として見送ってくれました。壮行の歌を歌い、私たちが命を捧げることに村の人は泣いてお礼を言ってくれました。これから私はどうやって皆の目を見ることができようか。“仲間は死んだ。でも自分は帰った。生きている。健康で。戦争で負けた”

 どうしようもない気持ちでたくさんの人は自殺しました。大西長官(特攻の生みの親)は自分が過ちを犯したと悔やみ、割腹自決をしました。短い刀で自分の腹を切り、12時間前後たった時に駆けつけた医者の手当てさえ断ったそうです」



大西長官「特攻隊の生みの親」


ドマ「戦争で負けて、心の傷は大きかったですか」

川野「何週間も夢遊病者の様に歩きました。けれどもプライドは少し残っていました。それから一度、夜に人気のない焼け野原の道で、日本人の女の人とヤンキーの兵士とがいちゃつきながら散歩をしてました。女の人はアメリカ人の腰に手をまわしていました。私達はこういう女性たちの貞操を守るために前線で血を流したのだ、と思いました。私は負けた後、面子をつぶされた、裏切られた気持ちになりました」

ドマ「戦争の後、どうしましたか」

川野「終戦後、1ヶ月半程度は米軍に武器を引き渡すための手続きなどをして、その後故郷に帰りました。19歳の時です。3人の男の兄弟は無事でした。でも姉2人の夫は亡くなりました。町では食料不足でしたので、ご飯に何でも混ぜた粗末な物しかありませんでしたが、田舎では幸い不自由しませんでした。はじめは家業の農業を手伝い、警察の無線係をやったり、捕鯨用の造船会社で働き、28歳の時に結婚しました。息子2人と娘1人が生まれました。今は孫6人です。3年前、自分の不動産会社を辞め、年金生活になりました」

ドマ「今の飛行機をどう思いますか」

川野「すばらしいですね。戦時中は飛ぶために操縦士と偵察員が協力して飛びました。飛行機の向き、風速など様々なことを計って飛んでいました。今の時代はすべて機械がやってくれます」


当時使用された計測器

ドマ「最後にいつ飛行機に乗りましたか」

川野「数ヶ月前、東京に行った時です。とても懐かしかったです。でもなんだか物足りなかった。パイロットは高度2000メートルから急降下しなかったから。(笑)これはすばらしい気持ちです。でも200メートルのとき水平飛行に移ることができたら、の話ですけど」

ドマ「特攻隊員だった人の人生は、何か普通と違いますか」

川野「もちろんです。精神面が違います。精神的に強いです。命に比べて毎日の問題は小さく見えます。人間関係で価値観が違うのです。人の心の奥底を見抜きます。時々初対面でもどのような人か、わかります」

ドマ「仲間が亡くなったことは意味があると思いますか」

川野「太平洋戦争の恐ろしさを説明する必要はないと思います。310万人の日本人、このうち50万人の民間人が亡くなりました。

 日本人たちは決心が固く、このなかで神風、つまり命がけで抵抗、国を守ったのはひと部分だけでした。アメリカの上層部は神風の事があったので、敗戦国日本の処理を民族をなくすという方法とは別の方法にした方が良いと考えたのではないでしょうか。日本人のプライドも大切にして、天皇の尊厳も保ち、勝敗をはっきりと見せ付けずに協力者として統治する。私達の壊れた国はまた再建しました。そして世界で最も強い経済を築き上げました。今の豊かな生活の基盤には、あの若い特攻隊員たちの命が根底にあるのです」

ドマ「最後のまとめとして今の若者に何かメッセージはありますか」

川野「自立、自分で何でもやること。カネと物を消費させられるだけの人に、社会の操り人形にはならないで下さい。頭を良く使って、世界のことを自分の目でよく見て決めてもらいたいです。正しい価値観を持って下さい。善悪を正しく判断してもらいたいです。命に対して価値ある物を大事にして欲しいです。他の方と平和に暮らして下さい。他の国の若い人と協力して21世紀が平和な時代となるように努めてもらいたいです」

ドマ「何か夢はありますか」

川野「今、74歳です。11年前開館したこの資料館をもっと広くして、本物の特攻隊の歴史を教えたいです」

資料館で説明する川野氏

エピローグ

平成22年(2008年)に川野さんとこの話の続きをした。

川野さんは「お守りを大切にしていますか」と最初に聞いた。私達の友情が深まった時、彼の命を戦争から守った一番大切な物を私にくれた。マッチ箱位の大きさで、黄ばんだ紙に包まれたそれには、神秘の文字と絵が記されていた。困窮したとき、有名な侍たちの命を助けたお守りだそうだ。このお守りのお陰で私も生き長らえているようなものだ。

ベテランの神風も今は82歳。疲れを知らないかのごとく、エネルギッシュに自身の資料館を運営している。若い訪問者には解説もしている。

「毎年3万件の傷害事件があります。にもかかわらず、私たちの祖国は“平和な国”と言えるでしょうか。若者たちは受動的です。国の平和は憲法が守り、外からの攻撃は米軍が守ってくれると思っています。独立国というものは、自国を守ることが基本にあると思います。平和ボケ!なのです。

若い時、私は祖国のために命を捧げても良いと思いました。このような崇高な気持ちはどこへ行ったのでしょう。亡くなった戦友達が生き返って現在の日本社会を見て怒るに違いありません。60年以上前、日本が戦争に負けて進駐軍は強制的に国を弱体化させる憲法を作らせました。この憲法こそ、日本に対して最大の損失だと思います。日本人たちは大和魂に立ち返り、独立国に適した良い憲法を再び作成する事が必要です。これが遂行されるまで、私は穏やかに死ねません」

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